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第4章「帰る場所、ジャグラー」【早紀のジャグラー在日遊技録】

2021年6月18日

2011年3月11日。

私はお昼すぎに起きて、いつものパチンコ店でジャグラーを打っていた。平日の午後らしく、埋まっている席は3割程度。穏やかな雰囲気の中、私の勝負も下皿の範囲内でコインの増減を繰り返すような、まったりとした展開だった。

14時46分。

最初は少し揺れているなと感じた。ほとんどの地震では、この感覚のまま収まっていくのに、揺れは続いて次第に大きくなる。周辺の機器などもはっきりと「ガタガタ」と音を立て始め、ついには「ガチャンガチャン」と今まで聞いたことがない悲鳴を上げた。

私は何もできずにいると、ジャグラー仲間のお客さんが「早く外へ!」と叫んだ。持ちコインのことなど気にせず、慌てて飛び出す。まっすぐ走っているつもりなのに、揺れで左右に流されてしまう。駐車場まで出ても、まともに立っていられない。すぐ近くのアスファルトには亀裂ができようとしている。

同じように避難した人には、泣いているおばあさんもいた。

ようやく揺れが収まった後、今度は急に雪が降ってきた。地震も怖かったけど、この天候の変化はさらに怖かった。天変地異、この世の終わり、いろんな言葉が頭をよぎったけど、とにかく自宅と店の無事を確認しなければいけない。

徒歩で帰る途中、周辺の家は屋根の瓦が崩落し、道路の信号は動いていなかった。停電だろう。善意ある人たちが車を降りて、交差点で交通整理していた。このような咄嗟の判断ができる人は本当に尊敬する。

自宅に戻ると、家具はほぼ全て倒れていた。窓ガラスも割れていた。電気だけでなく、ガスや水道も寸断。次に私の店へ向かうと、棚にあったグラスやお酒はほぼ全滅で、やっぱりライフラインも全滅。

何もかもがメチャクチャだった。

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ただ、それよりも大変だったことがある。余震が続く中、ラジオを聞きながら少しずつ自宅の後片付けを始めていると、原発の異常を伝えるニュースが流れてきた。

恥ずかしいけど、当時の私は原発とは何か、そこに異常があると何が起こるのか分からない状態。でも、地震後の非常時だ。良くないニュースなのはすぐ理解できた。

この後の出来事は、説明するまでもない。

たしか2回目の爆発が起こり、大量の放射性物質がばら撒かれたのは3月14か15日。私が住んでいる地域は原発から30キロ以上離れていて、避難対象にはならなかったものの、かなりの空間放射線量を記録していた。

当然、中国の両親や親戚などからは「大丈夫か」という連絡が何度も来た。日本で働く同胞のなかには、すぐに帰国した人もいる。むしろ、一時的に帰国した数のほうが多いかもしれない。

異国の地で地震だけでなく、放射線という未知の恐怖に怯えるぐらいなら、地元に帰ったほうが良いと考えるのは当然だ。チャーター機などを飛ばし、自国民の避難を手助けする国も多かったと思う。

私は帰らなかった。

結婚した時点で日本国籍になったこともある。しかし、それよりも現在の生活を捨てることに抵抗があった。せっかく自分の店を持ち、軌道に乗ってきたところだ。何よりも、お世話になった店のお客さんも同じように苦しんでいる。

ジャグラーの仲間たちも同じだろう。彼らを見捨てるようなことはできない。今後、日本がどうなってしまうのか予測できないし、私にできることは限られているけど、きっといつかは役に立てる日が来るはずだ。そう思った。

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店を再開するまでには、地震発生から1ヶ月ほどかかった。そして、ようやく再オープンさせたのは良いものの、当初の客入りはまばら。普段であれば東京や仙台など、地元以外からの出張客もそこそこ来るのに、これらのお客さんはゼロだ。

地震や原発事故の大きさを考えたら、仕方ないことだった。一方、地元のお客さんの中には「大丈夫?」と顔を見せてくれる人が結構いて、その度に再会を喜んだ。

潮目が変わったと感じたのは、翌年の2012年あたりだろうか。いつもの常連客に加えて、新たなお客さんが徐々に増えだした。復興工事関連の人と、原発事故の影響でB市に避難してきた人たちだ。

割の良い仕事だったり、賠償金の関係などで、とにかく彼らは羽振りが良かった。一方で、お酒が入ると荒れる人も多かった。店内で客同士が喧嘩するなんて、これまで一度もなかったのに、この時期だけは警察に通報したことが何度かある。

それぞれが何か大きなストレスを抱えていたのだろう。私が大切にしてきた店の雰囲気を新参者に壊されている感じがして、ちょっと嫌な気分になった。けど、彼らを責めることはできなかった。

同じ頃、パチンコ店の空気も変わったように感じた。

これまでジャグラーのシマではあまり見かけなかった、いわゆるガラの悪い客がちらほら現れたのだ。台の掛け持ち、台を叩く、中には周辺の客に嫌な声がけをする人もいた。

少しずつパチンコ店通いを再開していた私も被害を受けた。

「姉ちゃん、可愛いじゃん。飲み行こうよ」

無視する。

「聞いてんの? あ、どっかの店で働いてんだろ?」

…………。

「日本語が分からないのか。出稼ぎか? 一晩いくらよ?」

その直後、周辺にいた4人の客が寄ってきて、何やら激しい言葉を交わしながら、男の腕を引っ張って店外へと連れ出していった。

勇気を持って私を助けてくれたのは、ジャグラーコミュニティの仲間たちだった。

私は泣いていた。突然の出来事に驚いたこと。汚い言葉に傷ついたこと。あのような男が出てきてしまう環境のこと。そして、ジャグラーの仲間が優しかったこと。

結局、男がどうなったのか分からないけど、10分後ぐらいには常連のみんなが帰ってきて、私に声をかけてくれた。

「ほら、大丈夫だから。打つべ」

「早紀ちゃん、そんなに泣いてたら目押しできねーぞい」

「元々目押しは苦手なのに、余計ダメになっちまうわい」

「あらら、すぐ光った! 早紀ちゃん、やったな!」

大きく滲(にじ)んだGOGO!ランプは、日本で見た景色の中で一番綺麗だった。

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復興特需のような現象も、2018年あたりには一段落。震災や原発事故の影響をすぐ間近に感じることも減ってきて、日本も、私が住む地域も、店も、ひとまず落ち着きを取り戻していた。

その矢先、今度は新型コロナの問題が起きた。店の経営面では、こちらのほうが深刻かもしれない。

「密」を怖がってお客さんが大幅に減り、さらに営業自粛や時間短縮などが相まって、売上は激減している。いくら行政からの保証があっても、まったく足りない状況だ。

今は、店を畳むことも考えている。

実はお客さんが多いときに限り、手伝ってくれていたスタッフもいたけど、彼女には正式に辞めてもらった。

常連のお客さんの中には「ごめん、今は行けない」と、わざわざ連絡してくれる人もいる。もちろん有り難いことだ。でも、いつになったら来てくれるのか見通しは立たず、それを考えると余計に落ち込んでしまう。

そんなときは、やっぱりパチンコ店でジャグラーを打つに限る。

ここに来れば、仲間たちと触れ合い、会話もできて元気が出る。また、これまでの日本生活で苦しかったことを思い出し、「あれを乗り越えたのだから今回も大丈夫だろう」と前向きになれる。余計なことを考えず、純粋に勝ち負けを楽しむこともできる。

気がつけば、私にとってジャグラーのシマは「帰る場所」になっていた。

私には、どんな未来が待っているのか分からない。

一つだけ確実なのは、これからもジャグラーと共に生きることだ。

─完─

早紀のジャグラー在日遊技録

在日中国人女性の人生とジャグラーが絡み合うドキュメンタリー小説。中国人女性の人生に多大な影響を与えるほどのジャグラーはどのように関わっていくのだろうか…。

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